日本二十六聖人の殉教と殉教の歴史

日本二十六聖人の殉教と殉教の歴史

日本二十六聖人と日本の殉教の歴史

1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が初めて日本に伝来。

その後、他の宣教師たちも日本に来て信者数は急増していきました。
しかし1597年2月5日、日本で最初の殉教が長崎・西坂で起こりました。
外国人宣教師とともに子供3人を含む日本人のキリスト教者が、棄教して生きることを拒み、天国の希望を持って殉教していったその信仰は、日本のキリスト教信仰の原点ともなっています。

日本二十六聖人の足跡

1597年2月5日。長崎西坂の丘で殉教した26人のキリシタンたち。
彼らはこの世の自由、名誉、栄華ではなく、永遠に価値あるものに目を止め、天国に希望を持って京都から長崎までの道のりを歩みました。その喜びで満ちていた足跡を辿ります。

日本二十六聖人記念集会

2025年2月5日(水)

だれでもわたしに従う者は、自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしに従いなさい(マルコの福音書 8章34節)

私たちはプロテスタントの教会ですが、日本 26 聖人の歩みに深く感銘を受け、これからの時代に備えて、その足跡にならうようにと、この日を記念する集会を行ってまいりました。
ぜひ、ともに神さまをほめたたえ、神さまのことばに耳を傾けるひとときを持って頂ければ幸いです。

直接参加できない方のために、集会はオンラインでもご覧いただけますので、どこにいても参加することができます。
また、ご都合の良い時に後でご覧いただけるよう、保存版ページも提供されます。

→公式サイト

第1部 時 間 11:30 – 13:00
会 場 長崎西坂公園
主講師 パウロ秋元師(TLEA 東京アンテオケ教会)
講 師 イザヤ木原真師(TLEA 長崎エルサレム教会)
→ LIVE 配信
第2部 時 間 14:00 – 15:00
会 場 長崎西坂公園
主講師 大川従道師(大和カルバリーチャペル)
→ LIVE配信
第3部 時 間 19:00 – 21:00
会 場 長崎市平和会館
主講師 大川従道師(大和カルバリーチャペル)
講 師 パウロ秋元師(TLEA 東京アンテオケ教会)
講 師 イザヤ木原真師(TLEA 長崎エルサレム教会)
→ LIVE 配信

日本でのフランシスコ会の働きの実と日本二十六聖人の殉教

1597年2月5日、長崎西坂で殉教した日本二十六聖人は、キリストを信じる信仰のために日本で初めて殉教したクリスチャンの方々です。
この弾圧処刑を命じたのは、当時の日本の権力者豊臣秀吉でした。秀吉は、スペインが日本を占領する手下としてまずフランシスコ会を送ったという言葉を吹き込まれ、秀吉はそれを信じたためでした。このためフランシスコ会に対しての弾圧が起きました。

殉教した26名のうちバプテチスタ神父など23名はフランシスコ会で、パウロ三木など3人のイエズス会は間違って捕まえたものでした。

まず、スペイン・マニラからの外交使節として、バプテチスタ神父がフランシスコ会として初めて1593年に来日しました。
そこから殉教までの3年半、11人のフランシスコ会士が日本で働きをなしました。そのうちバプテチスタ神父を含む6名が殉教しました。5名は国外追放となりました。
このフランシスコ会の働きで,日本で非常に大きな実が結ばれました。
具体的には25,000人の改宗者が与えられました。3,000人の背教者が信仰に復帰しました。
また、京都に2つの病院を作り、ハンセン氏病で見捨てられた方々200名以上を収容し、足を洗うなど、献身的にお世話をしました。

11人のフランシスコ会士のうち、二十六聖人で殉教した6名

・バプチスタ神父
・マーティン神父
・ブランコ神父
・ヘスス修道士
・ゴンサーロ修道士
・ミゲル修道士

二十六聖人で殉教したフランシスコ会の日本人の子供3名

・ルドビコ(12歳)
・トマス(14歳)
・アントニオ(13歳)

イエズス会

・パウロ三木修道者

バプチスタ神父(48歳、スペイン生まれ)

日本二十六聖人のリーダー、日本でのフランシスコ会のリーダー。スペイン・マニラから日本へのフランシスコ会初の外交使節として当時の日本の権力者豊臣秀吉と謁見しました。このバプチスタ神父を主人公にした実話に基いた映像が,「バプチスタからの秘密のミッション」です。

バプチスタ神父は日本にいたフランシスコ会士11名の責任者でした。
病院に収容されたらい病人の足を率先して洗いました。
また、1597年2月5日長崎西坂で殉教をした日本二十六聖人のリーダーでもありました同じフランシスコ会のジェロニモ神父は、自分も一緒に捕らえられ殉教することをも望みます。
しかし、バプチスタ神父は決して首を縦に振りませんでした。
殉教地長崎に向かうバプチスタ神父からジェロニモ神父への手紙には、実は「秘密のミッション」が記されていました。
その「秘密のミッション」とはいったい何だったのでしょうか?
そして「バプチスタ神父からの秘密のミッション」は、400年を超え今日の私たちにも与えられています。
ジェロニモ神父との手紙のやり取りを通して、バプチスタ神父が実は力強いリーダーであり、牧会者であり、神様の声を正確に聞いて従う神様の器であったことがはっきりとわかってきます。

(TLEA映画ミッション製作)

マーティン神父(30歳、スペイン生まれ)

日本二十六聖人の中には、神様から前もって、「日本で殉教する」と語られて日本に来たマーティン神父がいました。
このマーティン神父を主人公にした実話に基いた映像が、「天国への道ーマーティンの物語」です。

(TLEA映画ミッション製作)

ブランコ神父(25歳、スペイン生まれ)

メキシコで、ブランコ神父は同じくスペインから遣わされたマーティン神父の弟子となりました。
そのメキシコからフィリピンに遣わされました。そして、1596年にマーティン神父に同行して、さらに日本に遣わされました。
特に、2人は日本への船の中で、非常に熱心に日本語を勉強し、ブランコ神父は、日本に着いたときには、日本語で告解を行うことが出来るほどに日本語が上達したそうです。
殉教地長崎の西坂に向かう途上、殉教者一行はののしられ、嘲れられたときに、最も楽しそうにしていたのはブランコ神父でした。
なぜなら、ブランコ神父は聖書の「人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。」(ルカの福音書6章22節、23節)の言葉に立っていたからです。
そのブランコ神父を主人公とした、実話に基づいた映像が「主イエスを讃える生涯ーブランコさんの物語 」です。

(TLEA映画ミッション製作)

ヘスス(24歳、メキシコ生まれ)

ヘススは、日本二十六聖人の中の6名の宣教師の中で、一番最後に日本に到着しました。
そして、一番最初に殉教しました。
ヘススは、自分が殉教するなんて、おそらく考もしなかったと思われます。
また、ヘススは、日本に来る予定でもなかったのです。
ところが、日本に漂着しました。
このヘススが日本に来るまでに、また日本に来てから4カ月の短い期間にどんな生き方をしたのでしょうか?このヘススを主人公にした映像が「メキシコ人ヘススの物語」です。

(TLEA映画ミッション製作)

ゴンサーロ(40歳、インド出身)

父親はポルトガル人、母親はインド人。
ゴンサーロはインドのイエズス会の孤児院で育ちました。
そこのゴンサルベス神父に誘われて、15歳の時に共に日本に来て約8年宣教しました。当時のイエズス会では、片親だと伝道師になれないため、ゴンサーロはイエズス会を去り、日本を去って商人となりました。
このゴンサーロに神様は特別な計画を備えていました。
このゴンサーロを主人公にした、実話に基づいた映像が、「ゴンサーロと秀吉」です。

(TLEA映画ミッション製作)

ミゲルさん (57歳、スペイン生まれ)

ミゲルさんは、日本二十六聖人の中の6名の宣教師の中で、最年⻑でした。当時の平均寿命を大きく超える57歳で、一般信徒の伝道師でした。
ミゲルさんは、読み書きが出来ず、無学だったそうです。それで日本語習得も大変苦労されたそうです。
そのミゲルさんは日本でいったいどう過ごしたのでしょうか?
それがミゲルさんを主人公とした、実話に基づいた映像「この世の愚かな者、弱い者が選ばれた・・・ミゲルさんの物語」です。

(TLEA映画ミッション製作)

ルドビコ(12歳、日本生まれ)

日本二十六聖人の中で最年少のルドビコは 12歳でした。
「あまり利発(りはつ)ではなかった」のですが、明るくて皆を喜ばせるのが大好きでした。
そのルドビコの姿に日本二十六聖人の一行は長崎までの長く苦しい道のりの中、大いに励ましを受けました。
ルドビコは信仰を持ってわずか10カ月でした。
ところが、京都戻り橋から始まり、(唐津)山本村、西坂などでのルドビコの姿は、見る人に深い感動を与えます。このルドビコを主人公とし、実話に基づいた映像が「少年ルドビコと 26 の十字架」です。

(TLEA映画ミッション製作)

トマス小崎(14歳、日本生まれ)

14歳のトマスは、皆に隠れて、お母さんへの「手紙」を書きました。
その手紙は 400年を超えて保存され、多くの言語に翻訳さています。そして今も、読む者に感動を与え続けています。
このトマスの書いた手紙とはいったいどのようなものだったのでしょうか?
また、その時のトマスの心情はどうだったのでしょうか?
このトマスを主人公とした実話に基づいた映像が「母への手紙〜少年トマス小崎(こざき)物語」です。

(TLEA映画ミッション製作)

長崎のアントニオの物語

パウロ三木(33歳、日本生まれ、イエズス会修道者)

パウロ三木は、日本二十六聖人の中の3名のイエズス会の1名です。
英語では「日本二十六聖人」は「パウロ三木とその同労者たち(Paul Miki and his companions)」とも呼ばれています。このため、「パウロ三木」の名前は「日本二十六聖人」の中では世界的に最も知られています。
元々日本の権力者、豊臣秀吉の命令は、「フランシスコ会に対する弾圧・処刑」でした。それを間違ってイエズス会のパウロ三木などを捕えたのです。
しかし京都所司代がそのままにしておくようにとしたので、殉教者に加えられたままとなりました。
さて、父親が織田信長の家臣だった、パウロ三木と寺沢半三郎は幼なじみでした。
その2人が大人となって再会しました。それはまるで「ハリウッド映画のような展開」でした。
しかし、これは実話です。
お互いの心情をあらわした主題歌「天国で会いましょう」という曲を作り、ミュージカル風に描いてみました。
このパウロ三木と寺沢半三郎を主人公とし、実話に基づいた映像が「赦し〜パウロ三木と半三郎の5日間」です。

(TLEA映画ミッション製作)

長崎キリシタン史 〜元和の大殉教〜

長崎の大殉教としても知られている、元和の大殉教は1622年9月10日に長崎の西坂の丘で起こりました。この日外国人宣教師と日本人キリシタンを含む55人が一緒に処刑されたのです。処刑地は、1597年2月5日に日本26聖人が殉教した場所でもあった。二代将軍徳川秀忠によって全国に広く行われたキリシタン迫害の一つとしてこの大殉教は行われた。

北陸浦上キリシタン史

キリシタン禁令を敷いてキリスト教迫害をしてきた徳川幕府が1868年に崩壊後、明治時代になったが明治新政府もまた、キリシタンが増えることを恐れて信徒が発見された浦上のキリシタン達を村ごと流罪にした。長崎、浦上の地から最も遠い、石川県金沢に流されてきた、浦上キリシタンたちの足跡をたどる。1873年キリシタン禁令の高札が撤去され、彼らは3年半の流配生活の後に長崎に戻ることが許されたが流刑地で亡くなった者たちも多くいた。

京都キリシタン史〜ー条戻り橋日本26聖人殉教のスタート地点〜

二十六聖人の殉教の旅の始まりとなった、京都の一条戻橋、京都のキリシタンの歴史を辿る。
豊臣秀吉の治世にキリシタン弾圧が始まり、見せしめのため京都大阪のキリシタン24人が捕らえられ、京都一条戻橋から長崎までの800キロの旅が始まった。殉教者達にとってこの旅は、天国に続く旅であり、喜びであった。彼らの持つ喜びは当時の多くのキリシタンの励ましとなっていった。

京都キリシタン史 〜元和の大殉教〜

日本のキリスト教の歴史に「大殉教」と言われる3つの殉教が京都・長崎・江戸で起こった。これらは「元和」に起こったため「元和の大殉教」と言われている。京都のキリシタンの歴史を辿る。
1614年、将軍秀忠の命で禁教令が出されキリシタンへの迫害が強化されたが、京都でも最後まで固く信仰を守り通したキリシタンたちがいた。
1619年に京都で起こった元和の大殉教では、女性と幼い子供も含む厳しいものだったが52名が「天国で再び会いましょう」と互いに励まし合い、52名が最後まで信仰を守り通して殉教していった。

浦上キリシタン津和野物語

1868年の明治新政府樹立後、浦上キリシタンたちの日本各地への流配が決定した。
広島・津和野に流配した14歳の森山裕次郎が、殉教直前に兄甚三郎と姉マツに言い残した言葉は、不思議な形で実現していく。